おくりびと
2010年 4月2日(金)
民生児童委員の研修で映画「おくりびと」の原作者で有名な青木新門さんの講演を聴く機会がありました。私は数年前にも仏教婦人会で青木さんのお話を聴き、同じように「納棺夫日記」がテーマだったのですが、前回以上に今回は私の心に強く響くものがありました。なぜならそれは、その間に私自身が両親を亡くし、身近な人の死を経験したからです。
寺に育った私にとって「死」について他の人よりも幼いころより身近に接する機会があったとは思いますが、やはり今思えば、傍からみる死であったように感じます。
実際に母の死に直面し、早かった別れに「死なないで」と号泣するかと思っていたのですが、死んでゆく母に「ありがとう」の言葉しかでてきませんでした。悲しいというよりも、命を授けてもらったこと・愛情一杯に育ててくれたこと・・・これまでの母の姿が浮かび、感謝の気持ちで一杯だったことを思い出します。
両親の死に対して、周りの方々から「まだまだこれから頑張ってもらわなあかんかったのにね、残念だ」「孫の成長を見たかった事でしょうね、可哀想に」と声をかけていただきましたが、私は素直に受け入れられず、反発する気持ちさえありました。「短いことが悔いを残すダメな人生だったのか?」そのように母の人生を評価されたような思いがしたのです。
死を迎えた母は、病院で皆に「おおきに」と手を合わせていたように、最期の瞬間も感謝の気持ちをもち、自分の人生に満足して往生したに違いありません。
そして父もまた、駆けつけた私に「ありがとう、すまなんだな」と最期の言葉をかけてくれ、そのまま意識は戻りませんでしたが、自らの人生を悔いる事はなかったと思うのです。
私もまた、悲しい気持ちはありますが「もっといてくれたらよかったのに」と恨めしく思ったことはなく、早かったからこそ亡くなった両親から教えられたことが大きかったと、亡くなってもなお私を導いてくれているように感じています。
だからこそ、青木さんのお話しを聴き、共感して涙がこぼれたのです。身近な人の死を経験してこそ、他人の悲しみや命の尊さが解り、また、死についていろいろと考える機会を得るのだと思います。
「死」は決して忌み嫌うものではなく、往生する人生を認めて、お別れする大切な場であると思います。悲しみもありますが、それをおくる私達も、これまでの生き様を想い感謝してお別れする・・・。小さな子ども達も、かわいがってくれたおじいちゃんやおばあちゃんの死にこれから出会うことがあるかもしれません。
その時は、「まだ理解できないから」と隠すことなく、きちんとお別れをさせてあげてほしいと思います。きっと、悲しいお別れから学ぶことがたくさんあるはずです。
「大切なことを教えてくれて、ありがとう。仏さまになって、これからも見守っていてください。」
そんなおくりびとになってもらいたいと思います。
(副園長 土岐 環)